2017年12月26日《火》アストルに告ぐ

この年末シーズン、あちらこちらでベートーヴェンの「第九」が演奏される。

どうも、第九第九と騒がしいのは日本だけらしい。

(ヨーロッパではこの時期は「くるみ割り人形」とか「こうもり」とか「ヘンゼルとグレーテル」とか、クリスマス・年末シーズンに相応しい作品を演るのが主流らしい。)

この時期オケマンによく見られる傾向として、「今年は第九を○回演奏する!」「第九ラストまであと〇回!」と、あたかもその回数演奏することがステータスというか、誇りであるかのようにSNSで投稿したり、会話の中であったりする。

今年特にこの違和感を感じることがあって、なぜかと考えたのだが、思い当たったのはこの話だ。

 

ーアストル・ピアソラが本当に音楽で食べていけなかったとき、あまりにも仕事がなく、ついに知り合いの紹介で銀行に面接に行く。その銀行にいた銀行員たちが、シャツのボタンを上まで留めて、凄く鬱々としていて、生気がなかった。アストルは「ここには自分はいられない」と履歴書を破り捨てて銀行から出て行ったー

 

第九が嫌いなわけでも、馬鹿にしているわけでもない。むしろわたしはこの交響曲が大好きだ。第四楽章でファゴットやっててほんまに良かったと思ったし、いつ聴いても必ず鳥肌の立つ曲だ。

しかし、これをひと月に何度も何度もやるというのは、一体どういうことなのだろうか。

毎回感動と新しい発見を持てるような奏者はオケマンなんかやってないんじゃないかと思う。

経験と惰性からアンサンブルが構築され、譜面通りの仕事でしかない、まるでずっと自分が自分自身の演奏をコピー&ペーストをし続けるような本番を何度もやるというのは、本当に血の通った音楽がそこにあると言えるのだろうか。むしろ、第九専用のロボットオケが巡業していても遜色ないのではないだろうか。

それを自分が「何度もやっている」というのが誇りなのであるならば、それは毎日ずっと同じようにシャツのボタンを留めて受付に座ってお金を数え続けている銀行員たちと同じくらい退屈なことなのではないか。

わたしは、銀行員を見たアストルがおそらく抱いたような気持ちで、彼らの話を聞いたりSNSを見る。

それが自分がやりたかった音楽なのか?それが自分自身の音楽人生だと言えるのか?

恥ずかしげもなく第九の演奏回数を競い合うようなこの日本はやはりどこかずれている。

鎖国後の追いつけ追い越せで育っていった日本のクラシック音楽業界の落し物がここにあるような気がしてならないのだ。

 

アストルに告ぐ。

 

わたしたちはその世界とは訣別し、銀行から飛び出したあなたと同じ気持ちにある。

未来のクラシック業界は落し物が多すぎる。

 

バンドマスター ぴかりん

 

 

 

 

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