1月1日《月》クレモナ通信を読む。

今取り上げている大きなテーマが【現代におけるクラシック音楽】です。

「いったい、クラシック音楽ってなんなんだ」とファンの方から質問され、それをきっかけに話題を展開しております。

わたしたち演奏家は、レッスンの先生から「楽譜通り演奏しなさい。」「楽譜から読み取りなさい。」と言われながら練習や本番をこなしてきました。

「モーツァルトらしく」「バッハらしく」演奏するようにとも言われ、わたしが大学三年生の時にモーツァルトのファゴット協奏曲を演奏したときなんか、「モーツァルトにしては攻撃的すぎる」と満場一致の低評価でした。良い演奏だったのに…

一方監督に言われることは、「楽譜へのリテラシーを身に付けなさい。」ということです。

読譜力、というのでしょうか、監督は「国語力」という言葉を使います。

わたしたち【クレモナ】は現代に生きるクラシック音楽家として、ひと昔前に生きたピアソラの音楽をさらに現代人のアレンジによって、現代のクラシック音楽を演奏しています。

ピアソラが復古した「即興性」という音楽スタイルを、その先にいるわたしたちがどうイノベーションしていくのかは、この楽譜に書いてある、そんな風にも捉えられるような監督の言葉です。

ストラヴィンスキーの言った「私にとっての理想の演奏家は、オルゴールの蓋を開ける人だ」という言葉は作曲家冥利に尽きるのかも知れません。

それでも相反するかのように、こだわらなかったであろうバッハやモーツァルトは「らしく」演奏しろと言われますが、こだわったストラヴィンスキーや、マーラーなんかを演奏するときに「らしく」演奏しろと言われたことはありません。

もはや「らしく」演奏しようと思わなくっても、そのスコアが「らしい」音並びになっているのだと思います。

つまり、楽譜通りに演奏することがその作曲家「らしい」演奏になる、ということです。

ストラヴィンスキーの言った言葉にも納得がいきます。

じゃあなんで先生たちはモーツァルトやバッハを「らしく」演奏しろというのやろう。

これは単なる「イメージ」の押し付けではないだろうか。「伝統」という言葉の上にあぐらをかいてはいないだろうか。

即興=自由

モーツァルトやバッハが求めた「自由」を考えていくのは面白いことだが、それは型通りの「自由」ではないのじゃないかと思うのです。

最近バッハの「インベンションとシンフォニア」を弾きなおしています。もう少しうまく弾けるようになったら、どこかで聴いてくださいね。

【池田クレモナ・モダンタンゴ音楽工房】バンドマスター

ぴかりん