1月23日《火》アストルに告ぐ

「リベルタンゴ(=自由なタンゴ)」について、2週前の投稿でわたしの思っていることを書いた。

要約すると

①ピアソラはこの楽曲を重要視していないこと

②ヨーヨー・マ以降プロアマ問わずたくさんの演奏家がこの曲を演奏しているがピアソラを越えられる演奏はないこと

についてだった。

今回は、演奏会の余興のスタンダードみたいな扱いになってしまったこの曲を、【クレモナ】はどう捉えるのかについて。

たとえば、ベートーヴェンのシンフォニーの奇数番を考えると、小さなレンガ(リズム)をたくさん積み上げて大きな建物を作り上げているように感じることはないだろうか。

リベルタンゴもそういうことで、ずっと同じリズムをずっと演奏し続けている(ずっと同じリズムに支配され続けている)楽曲である。

一定のリズムでずっと動き続けていると、音楽の中にグルーヴ感が生まれてくる。

例えば、ずっと二重跳びをしていると、だんだんと一定のテンポが生まれてくるようになるが、それに似たようなものだと思う。

それが音楽の推進力となり、誰かがブレーキをかける、止めようと思わない限りは永遠と回転し続けるようになってくる。

リベルタンゴはある意味「終わりのないグルーヴ」を作り上げる曲であり、そこが基盤となっている。

また例えばバッハの音楽の終わり、というのは、どの曲においても派手なエンディング、作り上げられた週末ではなくって、むしろ楽曲自体が大きな音楽の中の切り取りであって、終わりというのはその区切りでしかないように感じることはないだろうか。

リベルタンゴの終わり、というのも、考えて意図的に作られたものではなく、(もちろん演奏中には終わりますよ、という意思疎通が必要になる)リベルタンゴという大きな流れの中の一区切りでしかないように思う。

むしろその点では自由でもなんでもなく、固められた土台の上でずっと踊っておかないといけないような不自由さを感じる。

しかし、ピアソラが求めたのはその「踊り」だとわたしたちは考える。

その土台の上では何を踊っても許される。何を踊っても自由である、ということだ。

この大きな流れの上での出来事をすべて抱擁してくれるような、そんな流れがそこには確かにある。

 

アストルに告ぐ。

あなたが作り上げた広大な不自由な流れはわたしたちに自由を与えてくれた。

わたしたちはその流れの先にいる者として、もっと自由に自由に音楽で踊りたい。

アストル・ピアソラの考えた未来を感じる曲は、リベルタンゴ以外に他ないと思う。

 

バンドマスター ぴかりん

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