先週までアッセンブラージュについて解説してきた。本日はその続きから。
よい音楽作品は、多くを語ろうとはしない
まず、よい音楽作品というのは、多くを語ろうとはしないと私は考えている。自ら語ろうとはしない秘めたる美しさが内包していて、演奏者はそれを見付け出さなければならない。
特に「組曲 天使」と言うのは、混じりっ気のない透明な仄かな、そして自ら語ろうとはしない、無口な甘美がある。それは、どこか記憶の奥にあるような経験と静かに繋がっているような印象を受ける。
大切な思い出は心の中で美化される
なので、この作品は徹底的にピッチが大切になってくる。だって、大切な思い出は心の中で美化されるのであって、ピッチの悪い醜い表現にはならないはずだ。
だから、全ての音符に意味を持たせて、理解をした上でバランスをとらなければならない。という事で、「セパージュ」を真剣に取り組まなければならない。
一方で、「セパージュ」をこれ見ようがしにこねくり回す人もいるけど、そういった演奏は感心しないことが多い。あくまでも「さりげない」表現をしたいと思う。こういったバランス感覚を身につけるために、クレモナは常に「アッセンブラージュ」について考えてきた。
ピッチが不安定な理由
そして、昨日の練習ではピッチの不安定が露呈して、集中力のない演奏になるときが多々あった。「アッセンブラージュ」に磨きをかけていくクレモナにとっては致命的な問題となっている。
では、なぜピッチが不安定になるのかというと、温度湿度といった問題があり、それぞれの楽器特有のクセもあり、簡単には解決しない。でも、超一流の演奏家は難なくやってのける。その違いは圧倒的な練習量。しかも、中身のある練習でしかないと思う。
一番初めに出す音から強い意識を。
楽器をケースから取り出して、セッティングした瞬間に出す音から、強い意識で取り組まなければ、解消されない問題だ。たった一音であっても、手を抜かずに美しくそして正しいピッチで演奏するという意識がないと、こういった問題は克服できないと思う。
また、吹奏楽などの現場でも良く見かけるのだけど、ピッチが高いとか、低いとかという問題に直面する。でも、私に言わせれば、「ピッチは高い低い」ではなく、「正しい、正しくない」という問題だと思う。
よく、「夏場はピッチがあがる」とか、「本番はピッチがあがる」という言葉を耳にするけど、ピッチが悪くなる事を、自分の責任ではないような言い方で気に入らない。自分ではどうしようもないような問題でも、同じ生身の人間がやってのけている事を思うと、こういった発言は無責任でしかなく、残念な気持ちになる。
まるで細い一本橋を渡っているかのような作業
また、「天使のミロンガ」という作品は神経を使う。一つ踏み外すと全てが台無しになってしまう。まるで、細い一本橋を渡っているかのように、常に遠くを見ながら足元を安定させる作業が求められている。流石に疲れる作業となる。当然、練習は2時間が限界。これ以上やっても得られる効果は期待できない。来週に持ち越しとなった。
楽曲のテンポが決まったら、音を磨き上げるだけ。その先にあるクリエーションも、この磨き上げの作業があってはじめて成立するはず。この辺りは、メンバーも共通認識のはずで、練習後はクタクタになってしまう。
来週こそは、満足いくピッチで練習ができることを希求する。
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