常にアジアを意識した作曲家だった坂本龍一の作品を手掛けるにあたり、僕はこれまで、なるべく距離を置いていた「アジア的」だとか「日本的」というものを否応でも意識して作ることとなった。
これまで、なるべく距離を置いていたというのは、クラシック音楽では、日本的なリズムの捉え方だったり、フィールを出してしまうと、すぐに注意される。つまり、演奏家としての初期のキャリアでは、東洋的なものは排除される。これは、西洋の音楽をしているので、ある意味仕方がないところ。
そして、大人になっても日本人らしさみたいなものを表出させると「ポンニチになっている」と、注意される。もちろん、クレモナに対してもこれまで僕は、何度となく「ポンニチっぽいのでやめてくれ」と、注意をしてきた。
そんなゴリゴリのクラシック音楽の畑にいた僕が、改めて「アジア的」なものを見つめ直す作業となったのが、坂本龍一の作品だ。
これまで、アジア的な要素を作品に取り入れた日本人の作曲家はいたし、もちろん取り組んで勉強したこともあったけど、坂本は少し違う。
クラシックに新しい要素として取り込む「アジア的」ではなく、
自分の音楽の中に取り込む「アジア的」な要素
一体、何がどう違うのかと、簡単に僕の意見をまとめると、これまでの作曲家は、クラシック音楽の新しい要素として、アジアのテイストを入れたというのが僕の解釈。それはそれで、意味のあることなんだけど、あくまでクラシック音楽の中に、新しい要素として取り入れたというのが一般的。
一方、坂本は少し違っていて、自分の音楽の中に「アジア的」という要素を取り入れたという印象。もちろん、クラシック音楽というのも、坂本龍一の音楽の一つの要素として、取り込んであり、そういったところが凄くて、並大抵の音楽家では太刀打ちできないところだと思う。ある意味、アルゼンチンのタンゴを自分の音楽の要素として進化させたピアソラとかぶってしまうところだ。
当然、非常にアジア的な音楽なんだけど、これまでのどんなジャンルでもない、どこか違う音楽。それが坂本龍一で、ピアソラをクラシック音楽の作曲家としてとらえて取り組んているクレモナとしては、坂本もクラシック音楽という立場から表現していければと考えている。
「ポンニチ」と「日本的」の違い
ということで、まず、はじめに僕がしたのが、「ポンニチ」と「日本的」は違うということからスタート。やっぱり「ポンニチ」という言葉は、どこまでいっても「悪口」だと思う。
では、「日本的」とは?に、なると思うのだけど、これがめちゃくちゃ難しくて、RECを直前になっても、いまいち理解が深まらない。
それでも、坂本龍一の作品をじっくりとみてみると、形式に則った作品であっても、テンプレにはめて作曲しているのではなく、そこには表現者としての必然性に導かれた音楽を作り上げたいという欲求と、いまだかつて誰も成し遂げれなかったセンセーショナルな音響を生み出したいという、お互いが矛盾する欲求のせめぎ合いから生まれてくるのがよく分かる。
なので、坂本に、なぜあんな音楽を書いたのか質問したとしても、説明することはできないかもしれないし、「そんな非芸術的な質問はするな」と、言われるかもしれない。
今日、多くの評論家ないし、音楽家が、坂本の作品に対し色々と説明しているけど、作曲家本人が説明しないものを、他人が勝手な理屈で説明しているフリをしているだけ。
だから、僕たちも坂本の痕跡を慎重に辿りながら、坂本の先に何があるのか、じっくりと見つけ出そうと考えて作ったのが、今回の作品たちだ。
今シーズンは「脱ポンニチからの日本的」がテーマ
新しいシーズンになり、クレモナのテーマとして、「脱ポンニチからの日本的」と決まった。そして、今回、めちゃくちゃカッコいいサウンドを作り上げることにした。
普通に誰よりもカッコよく仕上げるので、期待値最大にして待っていてね。
2024年9月21日 監督かじくん
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