バレンボイムのピアノリサイタルを聴きに、フェスティバルホールまで。(2021年6月7日)

ベートーヴェン最期のピアノソナタ・第32番

休憩が終わって、下手の扉が開き、拍手喝采を受け彼は入ってくる。ベートーヴェン最期のピアノソナタ。最期から2曲目(30番)、1曲目(31番)と聴き、まるで物語を読むように、じゃあ、結末は?とまるで本のページをそおっとめくっていくような気持ちだった。
だから、冒頭部で息が止まりそうになった。
心臓を締め付けられるような、リアルに自分の鼓動が大きな音を立てているのを感じた。前のめりになる、のではなく、シートの背もたれに張り付けられたような感覚。呼吸がどんどん浅くなる。

第30番・第31番で
スタインウェイ特注の「マーネ」の美しさを体感する。


正直言って前半の2曲のピアノソナタは夢見心地だった。お辞儀して座った瞬間に30番が始まり、あっという間にEdurの響きの美しさに何故か目頭が熱くなった。特に、マーネから紡ぎ出される(という言葉がぴったりだった)高音部のメロディラインの美しさは、フェスティバルホールの残響にきちんと溶け込み、線をなぞっているようだった。

息をのむようなppに聴衆が耳を立てているのを感じた。30番の終止はあまりにも美しすぎた。

聴衆が音の終わりに集中する、
滅多にない機会。

今までクラシックコンサートで体験したことのない、「物音ひとつない」状態を初めて味わった。そのわずか5秒がいかに貴重で感動的なものだったか…。拍手してはいけない、というのが聴衆全員の中で共通認識となり、バレンボイムが息をついて初めてわたしたちも一息ついたのだった。「フライング拍手」というのは、聴衆にとってもだが、演奏者にとっても、「まだまだ自分の演奏は余韻を楽しんでもらえるまでもない」と自己嫌悪に陥る大きな要因である。それをお客さまの鑑賞マナーのせいにする輩もいるが、そうではない、ということが今日証明されたのだ。


次に弾いた31番は、Asdurの響きの柔和さが特別表現されているようだった。このプログラムの中では「緊張と緩和」の「緩和」にあたる部分だったと思う。肩ひじ張った演奏ではなく、緊張感のある、それでもこなれた演奏だった。

若い演奏家ならもっとうまく弾く、
というのは本当であるが、真実ではない。

若い演奏家がこれを弾いたなら?と考えた。もちろん、テクニックでは彼らが優れた部分もあるだろう。早いパッセージ、強い音。若さ溢れる演奏だって可能だろう。しかし、それがこの曲のテーマか?という点でわたしは疑問に思った。ベートーヴェンが病に追い込まれていくさまは生き生きと描かなくったっていいのかもしれない。ああ、もしかしたら東京で、「はじめのピアノソナタ3曲」を弾かずに「最期のピアノソナタ3曲」を弾いた理由がわかった気がする。別にもう初めの3曲なんて彼が弾きたい曲ではないのだろうなと。

ベートーヴェンと70年向き合った「経験」


32番の怒涛の第1楽章のあと、第2楽章のアリエッタに入ったときに、ベートーヴェンと70年以上向き合うって、どういうことだろうか、と考えた。彼には彼なりの発見があっただろうし、ピアニズムだってあるはずだ。世界屈指の「ベートーヴェン弾き」だと監督が言っていた。


「経験を積まないと音楽なんて表現できないよ」と、あらゆる局面で言われたことを思い出いした。わたしには興味のない愛だの恋だのの話がだいたいその「経験」にあたることが多いが、そんな陳腐なものではない。いかに、プレイヤーとしてステージに立ってきたか。いかに、プレイヤーとして、ベートーヴェンに向き合ってきたか。という点だと思う。「経験」の在り方、だから「説得されて」、「納得する」ということ。しっかりとした歩みに裏付けられたピアニズムがそこにはあったのだ。

「対位法」で見出した、ピアソラとの共通点


わたしたち【クレモナ】が専門とする作曲家「アストル・ピアソラ」とおそらく同時期に、パリの「ナディア・ブーランジェ」に、バレンボイムは音楽理論や作曲技法を学んでいるはずだ。同郷であってもかたやアルゼンチン出身のさえないおっちゃん、かたや国宝級の坊っちゃん。しかし彼らにとって「対位法」というのはブーランジェにしごき上げられた共通の、重要な音楽の要素だったことがわかった。ピアソラは作曲で信じられないような「対位法」を使用するし、バレンボイムの弾く「対位法」はまるで何人で歌っているのかわからないくらい明瞭かつ抑揚のあるものだったのだ。(わたしたち4人がかりでも彼のフーガにはまだまだ程遠い。)


美しいトリルの中でメロディが歌い紡がれていく。弱音が天井へとフワッとなくなっていくのがまるで目に見えるようだった。

「演奏家の最期」に思いを巡らすのはまだ早い。


わたしたちも、あと60年、ピアソラと向き合うことが出来るのだろうか。この、音を紡ぐプレッシャーに、人目に、人の言葉にさらされる緊張感に耐えられるのだろうか。その頃にはみんなばあちゃんになってるんだろうけど。しかし、「経験」は重たい。「演奏家の最期」についてこんなに考えざるを得ないこともない。ただこの場所(フェスティバル)で演奏できるようなユニットに育て上げることが、現時点での夢である。最期のことは最期になってからでいい。

わたしは感動しました。


最後の音が会場に溶けたとたん、自分の気持ちもどっとほぐれて、何故か涙が溢れてきた。目頭が熱くなったレベルでは済まなかった。誰も拍手をしなかった。空気が止まったようだった。そして、彼は立ち上がった。
拍手をする手が止まらなかったし、スタンディングオベーションするにも立ち上がれなかった。巨匠だからすごいのか、もう見られないかもしれないという寂しさがそうさせているのか、なんだっていいのだ。批判するのはそれが仕事の人がすればいい。この一部始終を目の当たりにできたことが嬉しすぎて、冷静でいられないほど有難すぎて、身に余るほどの感動があったのだ。

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