1週間あいて四人での練習をしました。
6月の定期公演に向けての練習となりましたが、ピアソラの新曲「ミケランジェロ70」という作品の楽譜を配りました。この曲は近年多くの演奏家が取り上げており、YouTubeなどでも多くの動画を見ることができます。
その全てとは言いませんが、非常に関心しない演奏が多くあります。
ヘンテコな「ポンニチ音楽」
まず、ちゃんと和音を拍の頭で捉えられていないので、いい加減なリズムになるし、頭がないのだからアフタクトも全く感じることのできない音楽が多いような印象を受けています。
何となく雰囲気だけを真似てにわかな表現するからヘンテコな「ポンニチ音楽」になるのであって、しっかりとトランスクライブされた本質を感じ取れる演奏は残念ながら乏しいです。
本日は、そのお話しをします。
外側からではなく、内側から
まず、市販されている楽譜のヴォイシングが不適切になっているから、演奏者の音も間違った音が並んでしまっています。ピアソラの演奏を聞くだけ(耳コピ)だから、そういう楽譜になるのでしょうが、実際に彼らは、あの早いパッセージでどんなランをしていたのか、想像する能力がないとも言えます。
ピアソラの演奏を真似するのなら、外側からではなく、内側から真似しなければならないと言う事です。
そして何より、休符と弱奏が表現されていません。どんどん居心地の良いところで、日常的な表現しかできない演奏になってしまい、最初から最後まで暴走して終わり。こんな演奏を私は音楽とは認めません。
静寂を聴くのがクラシックだ。
さて、クラシック音楽というのは、静寂を求める不思議な音楽です。鳴っているか鳴っていないのか分からないくらい弱い音で表現する事も多々あります。
そして、客席の一番後ろに座っているお客さまにも、最弱音を届けなければなりませんし、音のない状態でも、音楽が存在するという概念があります。(ジョンケージなどの作品)
音のない、静寂な状況というのは、日常生活ではほとんど存在しませんよね。私たちの周りには常にあらゆる音に囲まれています。でも、クラシック音楽のコンサートでは、静寂が求められます。
つまり、ここで大切になってくるのが、客席が静まり返っていること。
こういう音楽というのは、なかなかなく、非常に特殊な音楽であり、私たちにとっては文化であり、聴衆にとっては芸術でもあります。
例えば、美術館とかでも静寂は求められますが、クラシック音楽のコンサートほどではありません。小さな声で、ささやく程度なら問題はありませんが、クラシック音楽のコンサートでは、ささやき声であっても許されません。
携帯電話などはもってのほか。咳ばらいや、足を組み直す音さえも、他の人の迷惑になるので遠慮しなければなりません。本当に堅苦しいこともあります。
でも、絶対に芸術を日常的なレベルに引き下ろそうとはしたくないし、クラシック音楽はその成り立ちから見ても、作品の中身を見ても、敷居が高くて、高尚な物だという事を認識しなければいけないし、人によっては、近寄り難いと感じる物だと言うことを自覚しなければいけないと思っています。
さて、ここまで静寂を求めて一体何を表現するのかということが大切になってきます。
静寂の中からそっとさざ波が起きるような繊細なサウンド
前述したような演奏からでは感じることのできない、静寂の中からそっとさざ波が起きるような繊細なサウンドを、演奏者自身の内側から表出させなければいけません。
こういった演奏を「芸術性の高い音楽」と私は考えています。
そして、自分たちで素晴らしい芸術だと感じている事を、もっと多くの人に伝えていくことが大切だと思います。
なので、わざわざ敷居を下げる必要は全くありません。そもそも敷居が高いのが普通な状態で、その敷居を下げようとしたいと考えている人もいますが、私は反対です。
一旦その演奏のレベルを日常のレベルまで落としたら、それはもう芸術ではなくなってしまうと思うからです。
もちろん、「格式が高くで聴くのはしんどいな」っと思う時もあります。
今日は疲れたからちょっと気軽な音楽を聴きたいと思った時は、私だったらビートルズを聞いたり、ジャズを聞いてリラックスします。
そう言う時には、そう言う時に合わせた音楽がちゃんとあるのだから、自分たちが最高に素晴らしいと感じている音楽の敷居を下げる必要はありません。
この素晴らしい高尚な音楽を、その高みを多くの人に、その姿を見てもらえるよう伝えていくのが、何よりも大切だと考えております。
2023.03.25 監督かじくん
コメント