今年初めての練習を少しだけしました。この日は、本番の後だったということで、疲れているところの練習となり、少々消化不良となりましたが、それはそれで意味のあった練習でした。
さて、今年の僕の目標としては、「さらに音楽を前進させる」という事を考えております。
「影響力」は混沌した今の時代にはない。
僕は、21世紀に入ってクラシック音楽が前進したという感覚は全くなく、かつてのシュトックハウゼンやケージに匹敵するような前衛の作曲家なんて誰も出てきていないし、ポップスだってジャズだってそうです。ビートルズやマイケル・ジャクソンのように、マイルスやコルトレーンのように影響力を持った人が誰かいたのでしょうか…。
本当に今の時代、混沌としていると思います。
また、僕の周りでも「音楽表現は自由にすれば良い」という西側育ちの甘っちょろいことを言う人もおられます。これって、東西冷戦下の価値観みたいで、時代錯誤も甚だしい戯言です。
もちろん、前衛音楽もポピュラー音楽も、西側の表現であり、ともに「自由」を謳う音楽という側面はありますが、その話は今度じっくりとします。(多分…)
自由な表現でお客さまが満足するという思い上がり
僕が言いたいのは、自由な表現でお客さまが満足するという思い上がりが気に入らないだけです。もちろん、プロフェショナルな演奏家について言っているので、ご容赦ください。
と言う感じで、蘊蓄を並べてそれらしく前衛音楽について語る人も多くはいますが、アカデミックな前衛音楽というのは存在する意味があるのかは、悩むところでもあります。
先日のお話。
とある教育者の方から「かじが言うように、音楽というのはもっと自分たちでクリエーションするべきだ」と、言われました。(僕がそんな言い方をしたのかは覚えていないのですが…)
それも、違うような気がします。
その方はクレモナの演奏を聴いて、素直な感想を言われたのでしょうが、「音楽は〇〇とあるべきだ」と言う発想って、まるで「学生らしくしなさい」とか、「女の子らしくしなさい」と言っているのと同じように思えて、今の時代の教育者が言うセリフとしては、不適切です。
かといって、ぶっ飛んだ狂気が良いとも思えないし、前衛作曲家を指導しているというより、文化政治家を輩出しているように思えて、その人には「早く大学を辞めた方が良い」と、強くお勧めしました。
音楽史における不毛の時代
残念だけど、冷戦後の30年間の音楽史というのは、何も生み出してこなかった不毛の時代だっと思うし、過去のコピーしか生まれなかった時代でもあります。
これって、新自由主義の勝ち組にターゲットを絞ったバブリーでグローバルな音楽と振り返ることができるのかもしれません。
自由と進歩が自らの存在証明になっていた時代はとっくに終わり、価値を問うて争う意味が消滅し、支持率の競争や、視聴率の競争と同じように、そこには「聴きたいものが聴きたい」だけになってしまい、いったい何が進歩で前衛なのか、その論点すらなくなりました。
結果的にみんなOK。価値観の多様性や、多元化の時代になり、主流がなくなってしまい、私のような反主流も存在しなくなりました。
後はもう好みでしかありません。「僕はこの音楽をきく。君はそういうのを聞くのですか」昔はそれで喧嘩になりました。でも、今はもうなりません。
結果的にみんなOKな時代になってしまったからに
前述の大学の教員は、主流信奉の保守ブルジョワで、僕は主流の転覆を企む革命分子です。これが今の時代、仲良くおしゃべりするようになり、この時代を象徴しているように思います。もちろん、それで良いのかは別として。
繰り返しになりますが、年少者の僕に不敬な事を言われても喧嘩にならないんです。以前だったら「かじ、表に出ろ!」と言って、殴り合いになるところですが、「かじらしいなぁ〜」という達観した物言いになってしまいます。
牙を抜かれて飼い慣らされたみたいで、見てられません。
主流派という大きな壁が瓦解したお陰で、僕のような反主流派も存在しなくなる。そんな予感を抱きながら、それでも僕は音楽を前進させたいと強く願っています。
実は、この辺りのお話を、次の「クレモナといっしょ」という冊子にまとめようと思っています。この冊子は、無料の配布物です。定期公演のアンケートに、「クレモナ友の会」に入会する(入会無料)とチェックしてくださった方にお送りいたします。
ぜひ、楽しみにしていてください。
そんな感じで、今年も尖った表現で、新しい音楽をクリエーションしていく僕がいると思います。クレモナのコンサートで、皆さまにお目にかかることを楽しみにしております。
2024年1月12日 監督かじくん
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