定期公演が近づいてきています。トリオの練習も力が入ってきています。そんなクレモナの練習時にふと感じた感想を本日はお伝えいたします。
定期公演では、メンバーそれぞれがアドリブ(本稿では「即興」で統一します)でソロを担当します。即興演奏と言って、非常に特殊な技術みたいにクラシック音楽では言われたりもしていますが、19世紀まではごく一般的に全ての演奏者がしていた技術で、20世紀後半ではどんどん分業されて、今ではほとんどのクラシック演奏家が取り入れないスタイルになっております。
本日はその辺りのお話をします。
即興演奏とは
まず、即興演奏ですが、その場で思いついたものを自由に演奏すると多くの人が言っていますが、僕はそれは間違いだという立場です。
譜面では書かれていないのかもしれないけど、みんなの頭の中に譜面があるわけで、それは演奏者としての経験と、これまでの蓄積された方法論があり、そこから完全に自由になるということはないと思っています。
第一、即興のために皆んな練習したりするじゃないですか。それって、矛盾でしかないですよね。譜面という束縛がないけど、完全なる無制約ではないということなんだと思います。
だから、「自由になる」って、めちゃくちゃ難しいことで、簡単にはできないということです。
例えば、「自由にやっていいよ」と言われたとしたら、反対に何もできなくなってしまうことってないですか?
これまで、自由を得るために枠を取り払うことばかり僕たちは気にしていますが、本当に枠がなくなったら、身動きできなくなるということです。むしろ、枠があった方が良いのかもしれないって思うんです。
では、自由な演奏っていったい何なのでしょうか?
多くの偉大な演奏家の言葉を借りると、「我を忘れてしまうような経験」ということなのかもしれません。
自分の演奏で、我を見失うような瞬間、枠に入っているのさえ忘れてしまう演奏なのかもしれません。だとしたら、やっぱり枠は必要なんだというのが、僕に意見になってしまいます。
では、クレモナにとって「自由な即興」とはどのようなものなのでしょうか?完全に自己を忘れるような演奏というのは、フリージャズから由来しているスタイルのように思いますが、個人的にはあの激情的な表現は苦手。とても芸術表現とは思わないからです。
芸術と言う限りは、もっと繊細で静寂な表現であってほしいと思っているのは僕だけではないと思うんです。
一方、今世紀になって、世界中で僕のようなスタイルを求めるのが主流になってきているって思います。お互いに耳をしっかりと傾けてアンサンブルするセッションでは、前者のような競争的な要素はありません。相手が出した音を打ち負かすようなことはしません。
それがある意味で正解の表現なのかも知れません。
さらに、自己表現のためだけに音を出していてはダメだと思っています。演奏する自らも聴き手の一人であるように音と接しなければならないということです。つまり音の探究から生まれてくる表現が大切になってくるということです。
これって、アンサンブルの初歩的な部分で最も大切なスキルですし、彫刻のように、素材を見て彫像を連想するような態度で演奏してはいけないと言うことだと思います。
削る作業ではなく、積み上げる作業
彫刻の人って、素材から「老猿」が浮き出てくるって感覚があるらしいのですが、即興演奏においては、常に相手の音と自分の音に耳を澄まして、細心の注意を払って、積み上げる作業で、彫刻のように削る作業ではないというのが、僕の解です。
当然、クレモナでは、自分の出す音が周りにどのように影響を及ぼしているのかを探求する作業を大切にし、共にパーツ積み上げる過程で生まれてくる表現をお客さまと共有したいと願っております。
クレモナの即興演奏には、監督としての僕の想いと、アップデートされた新しい表現をもとに繰り広げていく新感覚の音楽体験があります。
今回の定期公演では、そんなクレモナのクリエーションを全てご披露します。思い切り楽しい時間をお過ごしください。
2023年11月17日 監督かじくん
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